朝日日本歴史人物事典 「富永太郎」の解説
富永太郎
生年:明治34.5.4(1901)
大正時代の詩人,画家。謙治,園子の長男。東京本郷生まれ。大正3(1914)年,東京府立一中入学,8年,仙台の第二高等学校理科乙類に入学。ボードレールに傾倒し,H・Sという人妻との恋愛事件を起こして退学。11年,東京外国語学校仏語科に入学,ボードレールの翻訳や詩作を始める。12年12月から翌年1月まで上海に遊び,帰国後は画家になることを考え,絵の修業を始める。7月,二高時代の友人で京大にいた正岡忠三郎を頼って京都へ行き,このとき立命館中学在学中の中原中也と出会い,斬新なフランスの詩を中也に教える。これは中也が本格的な詩作を始める契機となった。また同年暮れ,小林秀雄の勧めで『山繭』同人となり,幾篇かの詩を発表し,それを読んだ小林もまた富永の感化を受ける。富永の作品は象徴詩風の端正なもので,「橋の上の自画像」「秋の悲嘆」「鳥獣剥製所」など,ボードレール,ランボーなどの影響を受けながら,その模倣に終わらず,独自の詩作を続けた。恐らく当時の日本の文学者で,フランス象徴派の作品を富永ほど正確に受容した詩人はいないだろう。それは理論的というよりは,ほとんど感性的なもので,富永自身の作品は,ボードレールの散文詩にありそうでありながら微妙に異なり,日本の詩の歴史に初めての抒情的,思想的な果実をもたらした。肺病に苦しみながらランボーなどの翻訳を続け,同時に「焦躁」「遺産分配書」などの散文詩を書いた。時代に先駆けた才能であったが,病魔が大成を妨げた。<著作>『富永太郎詩集』『富永太郎詩画集』<参考文献>大岡昇平『富永太郎』
(及川茂)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報